結婚は「大人の階段」——”めんどくさい”の向こう側にある可能性

人生・生き方

きっかけは、恋愛リアリティショー

ある恋愛リアリティショーを見ていた。若い男女が、いい感じなのに一歩を踏み出せない。告白する・しない、傷つく・傷つかない、その手前でモジモジ、モジモジ。

見ているおっさん(俺だ)は、正直じれったくて仕方がなかった。「いや、行けよ!」と。

でも文句を言いながら、ふと考えた。あの子たちが悪いんじゃない。頭でっかちで、安定を守りたくて、何より”自分が傷つきたくない”を最優先している——それだけだ。そしてそれは、恋愛や結婚を「めんどくさい」「損」で語る今の空気そのものでもある。っていうか結婚に対してちゃんと教育システムないよね?参考になるのは自分の親ぐらいしかない。

じゃあ、その先に何があるのか。傷つくリスクを取った先に、何が開けるのか。それをちゃんと言葉にしてみよう、と思ったのがこの文章のスタートだ。

「デメリットしか見えない」のはもったいない

恋愛や結婚の話でよく出てくるのは「めんどくさい」「自由がなくなる」「お金がかかる」——要するにデメリットの話ばかりだ。

気持ちはわかる。実際、前に法的な損得を整理してみたら、離婚時の財産分与、改姓の手間、連帯責任みたいな”コスト”はちゃんと存在する。SNSを開けば失敗談も炎上もいくらでも流れてくる。デメリットを数え上げるのは簡単だ。

でも、コストだけ見て「やらない」と決めるのは、リターンの計算をサボっているだけじゃないか、と俺は思う。投資でも仕事でも、コストしか見ない人は何もできない。大事なのは「その先に何が開けるか」だ。

俺は、結婚と子育ては大人の階段を一段登ることだと考えている。今回はその「登った先に見える景色」を、できるだけ言葉にしてみたい。

結婚に「教科書」はある。でも肝心なことは載っていない

ここで大事なことに気づく。あの子たちがモジモジするのも、みんなが損得ばかり数えるのも、無理はないんじゃないか——と。

正直に言うと、最初は「結婚なんて、まともに教えてくれる教科書がどこにもない」と思い込んでいた。でも気になって調べてみたら、少し違った。

**学校の家庭科で、ちゃんと少しは習うのだ。**中学の技術・家庭には「家族・家庭生活」があるし、高校の家庭科は令和からの改訂で「生涯の生活設計」という単元が導入に置かれ、青年期の自立、家族、ライフプラン、キャリア、生涯賃金や年金まで扱う。制度やお金の知識としては、俺らの頃よりむしろ手厚いくらいだった。思い込みは、素直に訂正しないといけない。

でも——だ。そこで教わるのは、あくまで知識だ。制度がどうなっているか、ライフプランはどう立てるか。肝心の「価値観の違う相手とどうすり合わせるか」「歩み寄れる関係をどう築くか」「そのために自分がどう変わるか」——つまり、これから書こうとしている中身は、家庭科の教科書にもほぼ載っていない。

しかも、だ。仮にそこそこ良い授業だったとしても、習うのは中高生。結婚が現実問題として迫ってくるのは、早くて20代後半以降だ。10年前の家庭科の授業なんて、誰が覚えている?(笑) タイミングが致命的にズレている。必要になった頃には、きれいさっぱり忘れているのだ。だから「教科書はある」けど、実質「無い」のとそう変わらない。

結局、いちばん知りたい”関係の築き方”を教える教科書は、やっぱり無いのだ。参考にできるのは、せいぜい自分の親くらい。親がいいモデルならラッキーだけど、そうとは限らないし、サンプル数はたった一組。それだけを頼りに一生の選択をしろ、というのは酷な話だ。

だからみんな頭でっかちになる。手本がないから、ネットの失敗談や損得リストで穴埋めしようとする。教科書がないぶん、”やらない理由”のほうが集めやすいのだ。

なら、せめて自分なりの見取り図くらいは描いておきたい。これはその、下手くそな一枚目の地図だと思ってほしい。

まず、家庭は「組織」である

ロマンチックな話から入らないのは、そのほうが本質に近いと思うからだ。

結婚してできる「家庭」は、実はひとつの組織だ。経済学者のゲイリー・ベッカーは、家庭を小さな会社のように分析した。役割を分担し(分業)、二人の資源をまとめて大きな買い物に回し(共同投資)、片方が倒れてももう片方が支える(リスク分散)。一人でやるより効率がいいから、人はチームを組む。会社と同じ理屈だ。

「相互扶助って、要するに家庭という組織を組み立てることだよね」——この見方は、けっこう正しい。稼ぐ人、家を回す人、先を管理する人。役割が噛み合えば、一人では持ち上がらないものを二人で持ち上げられる。

「価値観が合う人」を探す、という罠

さっきのリアリティショーで、もうひとつ引っかかった場面があった。「価値観が合う」「合わない」で、若者たちが延々と悩んでいるのだ。

正直、「何を言っているんだ君たちは」と思った。

そもそも価値観って何だ、と考えてみると、俺はそれぞれの生活ルールのことだと思っている。朝型か夜型か、お金を使うか貯めるか、休日は外か家か。育った環境が違えば、ルールが違うのは当たり前だ。それが完全一致する他人なんて、探すだけ無駄じゃないか。

ここで、さっきの「家庭=組織」の話が効いてくる。経営の世界に「何をやるかより、誰とやるかが先」という有名な考え方がある(ジム・コリンズの『ビジョナリー・カンパニー』の”First Who, Then What”だ)。まず適切な仲間をバスに乗せる。行き先は、それから一緒に決めればいい、という順番の話だ。

これを家庭に当てはめると、こうなる。「価値観(=何をどうするか)が一致する相手」を探すのが先じゃない。「価値観がズレても、すり合わせて歩み寄れる相手か」が先だ。合っているかどうかより、合わせていける関係を築けるかどうか。そっちが本質だと思う。

歩み寄りは、器の大きい方から

じゃあ「歩み寄れる関係」って、どう作るのか。

俺の実感では、器の大きい方・ストライクゾーンの広い方が、先に相手に合わせる。受け止められる範囲が広いほうが動いて、相手にも少しずつ変化を促す。狭いほうに「変われ」と迫っても、たいてい壊れる。

で、ここまで書いていて自分でハッとしたんだけど——他者は変えられない、という前提に立つと、結論はひとつしかない。変わるべきは自分だ。

「他人と過去は変えられない、変えられるのは自分と未来だけ」とよく言う。歩み寄りって、相手を変えることじゃなくて、まず自分が動けること。ストライクゾーンを広げられる人、自分から変化できる人こそが、関係を築ける人なんだと思う。

そしてこれは、「傷つきたくないから動かない」の真逆だ。自分から変わるのは、いちばん勇気がいる。でもその勇気を出せる人だけが、合う相手を”見つける”んじゃなくて、合う関係を”育てられる”。

でも、会社と決定的に違うことがある

ここからが大事なところだ。

会社はアウトプット、つまり利益が目的だ。ところが家庭は、利益を出すこと”そのもの”が目的じゃない。じゃあ利益はどうでもいいのか——というと、まったく違う。

**きちんと利益を出して、その利益を「関係」のために使う。**これをやらないと関係は壊れる。

稼いだお金や時間やエネルギーを、ただ貯め込むのでも、自分だけに使うのでもなく、相手や子どもや家庭に還していく。この”還す”動きがあって初めて、組織はただの共同経営から「家族」になる。

哲学ではこれを贈与と呼ぶ。近内悠太の『世界は贈与でできている』や、その元になったマルセル・モースの議論では、市場の「交換(見返り前提のやりとり)」と、見返りを求めない「贈与」を区別する。関係を育てるのは交換ではなく贈与のほうだ、という話だ。

つまり家庭とは、外で稼いだ利益(交換)を、内で贈与に変換していく装置なんだと思う。稼ぐだけでも破綻するし、稼がずに気持ちだけでも続かない。「利益を出す×それを関係に回す」——この両輪が回っているのが、うまくいっている家庭の正体だ。

それが「大人の階段」だという話

自分のために稼いで、自分のために使う。それも悪くない。でもそれは、階段でいえばまだ手前の段だ。

心理学者エリク・エリクソンは、人の一生を段階で捉えた。若い頃は「自分は何者か」を確立し(アイデンティティ)、次に他者と深く結びつき(親密性)、そして成人期には世代性(generativity)——次の世代を育て、次に手渡すことに向かう、と考えた。

エリクソンの面白いところは、これを「余裕のある人の道楽」ではなく、人が成熟するために必要な段階だと位置づけたことだ。誰かを育て、何かを次に渡す経験を通してしか手に入らない成熟がある。逆にそこを避け続けると、人は停滞(stagnation)する、と彼は言う。

自分の利益を、自分より先の何か——パートナー、子ども、次の世代——のために使えるようになる。これはまさに大人の階段を一段登ることだ。「めんどくさい」の正体は、この一段を登るときの負荷なんだと思う。筋トレの負荷と同じで、それがあるから登れる。

だから、可能性は「狭まる」んじゃない。「広がる」んだ

結婚は自由を奪う、選択肢を狭める——そう語られがちだ。でも本当にそうだろうか。

経済学者アマルティア・センは、豊かさとは所持金の多さじゃなく「選べる人生の選択肢の広さ(ケイパビリティ)」だと言った。この物差しで見ると、結婚や子育ては選択肢を”狭める”どころか、一人では絶対に届かなかった選択肢を開くものになる。

一人では背負えないリスクを取れる。一人では見られなかった景色を、誰かと一緒に見られる。自分の時間の使い方が、自分の快楽だけじゃなく「誰かの人生に効く投資」にもなる。子どもという、自分の思い通りにならない他者と向き合う中で、想像もしなかった自分に出会う。

これらは全部、一人のままでは開かない扉だ。もちろん代わりに手放すものもある。でも「手放すもの」だけ数えて「開く扉」を数えないのは、やっぱりもったいない。

「めんどくさい」の向こう側へ

整理するとこうなる。

家庭は、分業と投資とリスク分散で回る組織だ。ただし会社と違って、稼いだ利益を関係のために使う(贈与する)ことで初めて成り立つ。そしてその営みは、次の世代へ手渡すことで人が成熟していく大人の階段であり、一人では届かなかった可能性を広げる投資でもある。

「めんどくさい」は嘘じゃない。コストは確かにある。でもそれは、階段を登るときの負荷であって、階段そのものが無価値だという意味じゃない。

恋愛も結婚も子育ても、デメリットのリストで足を止めるにはもったいなさすぎる。その先には、コストを払った人にしか見えない景色がある。少なくとも俺は、その景色を見に行く価値はあると思っている。

だから、画面の中でモジモジしていた君に——そして、同じように一歩の手前で立ち止まっている君に、言いたい。

頭でっかちに損得を数えるのは、もう十分だ。安定を守るのも、傷つきたくないのも、わかる。でも傷つかずに開く扉なんて、たぶんひとつもない。傷つくかもしれないその一歩の先にしか、次の景色はないんだ。

じれったがってる俺を、どうか追い越していってくれ。一段、登ってみないか。

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